生活クラブ北海道機関紙

2013 8
  NO.367

  
INDEX
●憲法学習会 ぼく、軍隊に入らなきゃいけないの?
●報告 運営委員長研修
●戦後68年 佐藤紀子さんに聞く戦争体験
  ●いんふぉめーしょん
      生活クラブ
        いつ入るの?
             
いまでしょ!
 

6/25 白石区川北ライラック公園前

 毎年、展示説明車を使って行う委員研修拡大を5・6月各支部で実施しました。白石支部では委員の提案で、子育てサロンに通うお母さんに会える時間と場所に設定しました。当日は、チラシを見て来場された方が多く、委員からは「いろんな人と話が出来てよかった」「場所の下見をすることが大切」といった意見もあり、次の拡大につなげたいと意気込んでいました。




 


●憲法学習会<7/6札幌市教育文化会館>
ぼく、軍隊に
 入らなきゃ
いけないの?
           

 7月21日に参議院選挙が終わり、自由民主党の圧勝で「ねじれ国会」が解消され、さらに改憲への動きが活発化しています。憲法が変わったら私たちはどうなるのか。「軍隊に入らなければいけないの?」と心配する子どもの声も聞こえてきます。弁護士の林千賀子さんを講師に憲法学習会が行われました。

                  〈主催 文化委員会〉

 
 
  林 千賀子(はやし ちがこ)
弁護士。北海道ひびき法律事務所所属
中高生に法教育を継続的に行っている。

  権力者の暴走を 
 抑えるための法律 

 憲法は誰のために、何のためにあるのでしょうか。私が中学生に教えるときにはよく「月に移住した3000人の話」をします。「地球から人類が3000人移住しました。暮らしていくために何が必要ですか?」。子どもたちは「水・食料・空気、そしてルールやきまりが必要」と答えます。人が集まって社会としての営みが始まれば、自然と強者、弱者の力関係が生まれます。強者に優位なルールになれば、弱者にとって住みづらい世界になるかもしれない。そういったことが起こらないように考えた大元の決まりごと、それが国でいう憲法なのです。

 すなわち、人が人として「個人の尊厳」を確保するには、一人一人の権利や自由が保障されなければなりません。そのためには「権力を法で支配」することが不可欠であり、その法の根幹となっているのが憲法なのです。

  国民より国家前面の改憲草案へ 

 現憲法では、太平洋戦争の反省と平和主義への誓い、主権は国民にあることが書かれています。自由民主党が出した憲法草案では「日本は過去の歴史を卑下してはいけない」「私たちは第一に国を守ろう」「家族で助け合い国家を形成しよう」ということが押し出され、明治憲法下の思想に逆戻りです。

 そして大幅に書き加えられているのが9条。自衛隊にかわり「国防軍」が明記されています。国防軍というと国を守るだけのために見えますが、本土だけでの交戦なんてありえません。諸外国でも「国防省の国軍」はどんどん外に出てしまっています。そしてなんといっても新設された98条に「内閣総理大臣の緊急事態宣言権限」があり、有事には国会の承認なしに、内閣総理大臣が指揮官となって、国防軍を発動できることになっているのです。

 また12条、13条の「人間の尊厳」に関わるところも、「公共」から「公益」に変わっています。これは一字違いですが、意味がまったく変わり、個人としての尊厳を第一に考えることから、国・公を第一に考えることになっています。そして96条。憲法改正を簡単にするため、衆・参両議院の過半数の賛成で法案が議決できるよう、自民党は躍起になっています。

  貧困層の若者を狙うアメリカ 

 実は、もうすでに改憲への流れは進んでいます。今年2月に個々の情報を管理する「マイナンバー法」が制定されたのを皆さんは知っていますか。そして今国や自治体の機密漏えいを防ぐ法案「秘密保全法」が制定されようとしています。情報の統制が始まり、統治する側は着々と準備を進めているのです。

 もし自民党の憲法草案が通れば、今後の日本はどうなるのか。想像の段階なので難しいのですが、私は日本と同じ資本主義大国アメリカの現状をお話します。アメリカ国民は個々の自由・尊厳を大切にする国民でした。しかしNATO(北大西洋条約機構)参加による不況や9.11テロ以降個人情報が管理され、国民を縛る様々な法律が制定されました。そして貧困層の若者を軍隊に送り込む、巧妙な仕組みも作られたのです。

 ある日、高校を中退したスラム街の青年に、知らないお兄さんから一本の電話がかかってきます。言葉巧みに「今の状況を抜け出し夢をつかむために軍隊に入ろう。そして大学に行こう」と誘われ、青年は殺人マシーンとして戦地に送り込まれるのです。

 私達にとって空気のような存在の憲法。そのおかげで平和であることをまずは認識し、そして今その存続が危機的状況にあることを知ってほしい。皆さんには今日ここでお話したことを、家族や友人、周りの人に伝えてほしいと思っています。 〈 取材/加藤 〉



報告
運営委員長研修
 2013年度支部運営委員長研修が、6月7・8日の日程で行われ、東京都板橋区にある生活クラブ館徳丸と、埼玉県熊谷市にある米澤製油㈱の「なたね油」を見学しました。同27日、札幌エルプラザで研修の報告会がありましたので、各支部運営委員長の感想と合わせて紹介します。
     
東京生活クラブ館徳丸 生活クラブ館1階のデポー(店舗型共同購入)。生鮮食品やお総菜も販売している



地域に生活クラブを見せびらかす場

 
 南支部
芝池 寛子

 東京都板橋区徳丸の駅から歩いて10分ほどの住宅街にある、食・子育て・福祉の機能を一つにした生活クラブ館を見学しました。2011年にオープンし、一階に店舗型共同購入システム「デポー板橋」があります。ここを設立するには、1.5 km圏内にデポー組合員を千人集める必要があったので、チラシまきなどの拡大を1年前から行いました。

 設立後は地域との関わりを大切にし、町内会行事のバス待機場として駐車場を貸したり、町内の清掃活動にも参加しています。

 集会室はガラス張りになっていて、会議やイベントなどの活動を外からでも見え、参加を促すことができます。子育て世代に人気のアルバムカフェや生活クラブマルシェを開催し、必要であれば2階の保育園で一時預かりもしています。デイサービスもあるので、階段の段差を低くしたり、エレベーターをつけたり、トイレもゆったりしたスペースになっています。

 デポーでは消費材を直接見たり触ったり出来て、保育所やデイの給食にも利用されています。外には、Rびん回収ボックスや雨水タンクを設置するなど、生活クラブ運動をアピールする場になっていました。現在建設中の北広島の生活クラブ館、私たちができることは何か、みんなで考えていけたらと思います。

生活クラブ館を見学して
       
  厚別  薄井仁美

看板1つで生活クラブをアピールできたり、ワーカーズが増えたりする生活クラブ館に、北広島への夢がひろがりました。

 江別   添島直美


生活クラブ館は、高齢者や子連れのお母さん、買い物に来る組合員を温かく迎えてくれる思いやりの輪が広がっていました。
 
 北広島  櫻井さくら

デポーでは袋詰などの労働に参加すると、共同購入代金として相殺するワークシステムがあり、画期的だと思いました。 
  
   東  穂積薫 

デポーは買い物ができていいなと簡単に思っていましたが、組合員が動いて立ち上げたという話を聞いて驚きました。




埼玉 米澤製油(株)


       
                         国産と輸入なたねの違いを比較           湯洗い洗浄機          最後のろ過に使用する無漂白フィルター          目視での検品作業


会社の理念は「おっかねえ油はつくらない」                                                                          についての説明
 
 いしかり支部
道上 裕子

 米澤製油㈱は明治25年に創業し、今年で121年目。埼玉県では熊谷だけになった油屋さんはレトロな趣のある工場です。

 圧搾法でつくられたなたね油の一番搾りと二番搾りを味見しました。一番搾りは軽くクセがない上品な味で、生活クラブの消費材として供給されています。二番搾りは少しエグミがありましたが、業務用で豆腐屋さんの揚げ油として使われています。

 市販の油は二番搾りのときに99%まで油を抽出するので化学薬品(ノルマルヘキサン)を使っていますが、圧搾法では80%位しか抽出できないので、搾り粕はわたらい茶の肥料や鶏の飼料として有効利用することができています。湯洗い洗浄機は6台ありますが思っていたほど大きくなく、繰り返し洗浄(6~12回)することで不純物を取り除いています。市販の油は製造工程で苛性ソーダやシリコンなどの化学薬品で処理されています。

 働く社員の年齢層は20代から60代で、機械が故障したときの修理は自分たちがするので、修理の仕方も伝授するなど、世代交代もきちんと意識していました。先代のお母さんがカネミ油症事件をきっかけに「おっかねえ油を作るんじゃねえ」と言っていたという、その声がひしひしと聞こえてくるような工場でした。


米沢製油を見学して
         
   西 長谷川理恵

そこへ行かなければ感じられない風や景色、においや色、地域の人の言葉や習慣に触れることで伝わってくる貴重な体験ができました。
     小樽 柴田房子

日本の伝統文化を守ろうとする意識と、消費者と同じ目線でさらに良いものを作ろうという姿勢が強く感じられました。
  北  松田めぐみ

「遺伝子組み替えナタネの勢力が強くなっており、対抗するにはもっと食べるチカラをあつめなくては」という言葉を重く受けとめてきました。 
  手稲  藤本郁恵

利益追求ではなく、安心安全な物を作るという姿勢を貫いていました。私たちは次につなげていく人をもっと増やさなければと思いました。 
   清田  田中千里
工場内の熱気がすごく、生産者の苦労を感じました。コストがかかっても環境に配慮した選択をしていることがわかりました。

報告を聞いて
         
   中央 片桐葉子

子どもが小さくて参加できませんでしたが、自分の言葉で語れるようになるために参加したいと思いました。
   豊平 曽我部由恵
生産者が真面目に取り組んでいる様子が伝わってきました。デポーにも行ってみたかったです。 
  釧路  湊谷 小夜美
2年前に研修へ行ったことを思い出しました。生活クラブ館は組合員の夢が広がる場になると思います。
   恵庭 龍前美恵
製造工程を写真で見るだけでもにおいがしてくるようで、実際いに生産現場へ行ってみる意義はあると思いました。
  岩見沢 伊藤弘子

生活クラブ館があるということは心のよりどころになる。いつでも集えるし、つながりを持てる。岩見沢にもほしいと思いました。

                                     






戦後68年 佐藤紀子さんに聞く戦争体験

満州で迎えた日本の敗戦

 戦後68年が過ぎようとしています。戦中戦後の時代を生きてきた世代は、言葉では言い尽くせない多くの苦しみを体験してきました。
チュプでは、戦争の実像を語り継ぎ、二度と愚かな戦いを繰り返すことのないようにと毎年8月に戦争体験を掲載しています。
憲法9条改正の活発な動きに不安が募る今、満州で過酷な日々を生き抜いてきた手稲支部組合員の佐藤紀子さんに貴重な証言を聞きました。

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二度と繰り返してはならないとの思いから

 
 18歳の佐藤紀子さん

   私は現在89歳です。21歳の時に、満州国(現在の中国東北部)の通化という街で終戦を迎えました。心の中に刻み込まれた戦争の恐怖は、
 68年経った今でも消えることはありません。当時を思い出すことは大変辛く、これまで人に語ることができませんでした。けれども私が逝ってしまったらそれまでです。
 
  戦争とはこんなに惨めでとんでもないということを、お母さんから子どもに引き継いでいってほしいとの思いから、私が経験してきたことをお話したいと思います。

  私は10人兄弟の上から8番目の7女として、宗谷管内天塩町に生まれました。実家は木材屋です。父は将来、女性が必ず活躍する時代が来るからと8人の娘を
 全員女学校に入れ、本人が望めば東京の学校にも進学させてくれました。
 
  時代はすでに軍国の方向に進んでいました。旭川師団に入隊していた兄が、札幌を通るらしいというので、女学生の私は早朝の駅で何時間も待っていたことがありました。 
 そうしたら兵隊さん達が、兄を待っている私に手を振ってくださって、なんだか泣いて泣いて見送ったこともありましたね。

    満州には通化に住んでいた姉夫婦に誘われ、18歳の時に行きました。私は札幌の女学校を卒業後上京し、当時としてはまだめずらしいタイプライターの専門学校で
             学びましたから、その技術をいかし、市公省という役所のようなところで3年ほど勤めました。

戦後の満州で起きた通化事件

 1945年8月15日、日本の敗戦を知りました。戦争で負けるなど考えもしなかったこの日を境に、満州国の人々を支配してきた日本人の立場が逆転しました。
それまで日本の兵隊に虐げられていた分の仕返しが凄くなり、日本人は命の危険にさらされる状況となったのです。

 そして年が明けた2月3日の夜、外で鉄砲の音がして、何か大変なことが起きたのではないかと不安になりました。後に二・三事件とも呼ばれた「通化事件」が起きたのです。
7日には、通化にいる20歳以上の日本人男性が一人残らず連行され、終戦の年に結婚した私の夫も連れていかれました。その時の不安と恐ろしさは言葉になりません。
私と姉は嘆き悲しんでどうしてよいか分からずにいました。

 それから2、3日が経った頃、異様な気配に家のカーテンをそっと開け道路を見ましたら、着ていた衣服を剥ぎ取って素っ裸にした人間を山と積んだソリが、静々と何台も
通っていったんです。それを目撃した時のショックといったらありませんでした。死体の山は、通化事件の犠牲となった日本人だったと、これは後で知りました。

 通化の街には女、子どもだけが残されました。門をドンドンとたたかれるたびに八路軍やソ連軍の兵士が略奪にきたのではないかと怯える毎日。「危険だから外に出たらだめだ」
という忠告を守らなかった人が撃たれたり、一軒隣のお菓子屋さんの娘さんがソ連兵に連れて行かれ、ひどい目に遭って命からがら帰されてきたり、次から次と起きる事件を恐ろしい思いで見ていました。

 ある日、私の家にも5、6人のソ連兵がジープでやって来て、家の中に在るものを持ち去り、今度は私を連れて行くというのです。姉は私をかばって泣き叫んで哀願し、私は「絶対に行かないから殺して!」と叫んで決して動こうとしませんでした。言葉は分からなくても私の覚悟が通じたのでしょうか。部屋の壁をバババンと威嚇発砲で撃ち抜き、姉が自分の着物をほどいて、私の生まれてくる子どものためにと作ってくれた布団までも奪って帰っていきました。

 私は自分の身を守るために、髪の毛も眉毛も全部そり落として、満人の服を着ました。終戦の直後には満州にいた日本人に青酸カリが渡されていて、辱めを受けたらそれを飲んで死ぬように言われていました。ですから姉と私も、いつでも死のうねと言って持ち続けていました。本当は、もうこの世にいなかったかもしれません。しかし、通化事件で連行されて生き残った人が、夫の最期の言葉を私に知らせに来てくれたのです。

 「命を大事にして日本に帰ってください」。この言葉を支えに、生きて帰ろうと思いました。

飢えと恐怖のなかで日本への引き揚げ

 そうしたなかで、4月に私はお産をし、いつ日本に帰ることができるのだろうと待ちに待っていました。やっと帰れることになった9月、日本人が集まって、通化から引き揚げ船の出る葫芦島まで、野宿と汽車での避行が始まりました。

 野宿では中国人の暴徒に何度も襲われました。私達が荷物のなかにお金を隠しているのを見込んで、略奪に来るんです。また、9月の満州の暑さは厳しく、屋根のない無蓋貨車は強い日差しを避けて陽が沈む頃から動き出します。私は五ヵ月の赤ん坊を抱えていましたから、汽車が停止したら降りて川のある所でオムツを洗い、いくらか持っていたお米を焚火でやっと炊き、満人が売りにくる饅頭などを買って飢えをしのぐという、とても半端な苦労ではありませんでした。

 途中で精根尽きた親が、川に子どもを捨てるということも見てきました。でも自分の命をやり取りするような毎日、半分は狂気の沙汰。今考えると、みんなが正常な状態ではなかったと思います。とにかく、日本へ帰りたいとの執念のような思いだけでした。

 ようやく引き揚げ船が九州の博多港に着き、そこからギュウギュウ詰めで人が振り落とされんばかりの汽車に乗りました。子どもは泣き叫ぶし、食べる物はないし、おっぱいだってやっとです。生きることに精一杯。だから何でも食べました。どんな戦争でも女、子どもが大きな犠牲となります。でもそれが戦争なんです。

 いのちを大切にし、平和を愛する心を
次世代を担う子ども達に託したいのです。
 
 ◆ 佐藤紀子さん

1924年(大正13年)生まれ。生活クラブ加入歴28年
の手稲支部組合員。女性の視点を大切にしながら、
現在も自らの手で豊かな社会を創ろうとするさまざま
な活動に取り組んでいます

二度目の命を得て生きてきた私

 やっとの思いで帰った故郷の天塩では、みんなが温かく迎えてくれましてね、嬉しかったですね。地元の開拓農協に数年間勤めましたが、大自然の素晴らしさに触れ、次第に私も回復していきました。そして、職場を代表して札幌で受けていた講習会に、戦後の新しい時代の雰囲気を感じ、何とか自分一人でもやっていけるという自信を持つことができました。

 戦中戦後のひどい経験をしてきた者は、平和な時にこそ、平和に対する思いを身体にとどめて置くことが、とても大切だと思うのです。私は30年に渡って、音楽を愛する子どもや情操の豊かな地域をつくっていきたいと音楽教室を開いてきました。それは、生きている間に自分は何ができるかとの思いが出発点でしたが、今考えてみると、人を感動させ心を清らかにしてくれる音楽を通して、平和を愛する心を育てたいとの思いが根底にあったと思います。

 こうして今も頑張ることができるのは、やはり終戦後に引き揚げてくる時の、あの深い経験があるからでしょう。

 現在の夫は、私が戦後10年かかって巡り会ったほんとうに大事な人です。結婚して59年、感謝しない日はないくらいです。音楽教室を始めることができたのも、夫の理解があってこそ。私の第二の人生は夫に支えられてきました。

 振り返ってみると、私はたくさんの素敵な人に出会いました。良い人に出会って豊かな人生を送るには、お互いの違いを認め合い、人間としての尊厳が守られる世の中でなければなりません。私の経験をあえてお話したのは、再び戦争を起こさないよう戦争の実態を若い人、子ども達に知ってもらいたい。そして、一人ひとりが平和への意識を持って、争いのない社会をつくって行ってほしいという願いからなのです。                                                                                                               
                                                                 (聞き手/笹山)





※通化事件

1946年2月3日に、中国共産党に占領されたかつての満州国通化省通化市で、中華民国政府の要請に呼応した日本人の蜂起と、その鎮圧後に行われた中国共産党軍と朝鮮人民義勇軍南満支隊(李紅光支隊)による日本人および、中国人に対する虐殺事件。日本人3千人が殺されたとされている。中国では二・三事件とも呼ばれる。(ウィキペディアHPより掲載)











講演
 「エネルギーの地産地消」っていいな!
日 時 9月20日(金) 10:00~12:00
           
場 所 札幌エルプラザ 環境研究室 (札幌市北区北8西3)

内 容 自然エネルギー研究センターの大友あきおさんに、      北海道における自然エネルギーの実例から、未来に     向けた地産地消のヒントをもらいます。

                       主催 環境委員会
 

      つくる手 食べる手 その手はひとつ
    2013   わくわくまつり
日 時  10月6日(日) 11:00~14:30 
場 所  札幌コンベンションセンター大ホール
            (札幌市白石区東札幌6条1丁目)


「みたい!知りたい!食べたい!」をサブテーマに、委員会活動や消費材、生産者コーナー等を、まつり会場狭しとアピールします。


問合せ/生活クラブ本部 TEL011-665-1717
 石けん連続講座 (2回目洗濯編)
日 時 9月4日(水)10:00~12:00
場 所 札幌エルプラザ 料理講習室(札幌市北区北8西3)
内 容 石けんと合成洗剤の汚れ落ち比較や、石けん洗     濯の基本、スーツやシルクなどのおしゃれ着洗     いの実演を行います。
              主催 石けん運動委員会
   フィールドワーク第2弾
    炭鉱遺産の宝庫三笠ジオパークを行く
 
日 時 9月7日(土) 札幌駅北口 8:20集合
参加費 2850円 小学生以下1500円
      (バス代、入館料、昼食代、保険代込み)

内 容  石炭をキーワードに「大地の遺産と文明との共      生」を、地域作りとしてすすめている三笠市を      めぐります。

                   主催 文化委員会
             
           葬儀学習会
日 時 9月14日(土) 10:00~12:00
場 所 札幌エルプラザ 大研修室 (札幌市北区北8西3)
内 容 遺産整理を行っているキーパーズ社長吉田太      一さんから、様々な実例を話してもらいます。
                    
                   主催 福祉担当理事会
      

 毎日の日課と言えば、犬の散歩とお弁当作り。お弁当は息子が幼稚園に通い始めて以来、もう20年ほどになる。昨年フェイスブックを始めてから、お弁当のサイトに写真を投稿するようになった。互いに、おかずの作り方のコツを教えあったり、ほめられたりもすれば明日の励みになるというもの。
 ついつい在庫を思い浮かべながら、明日の手順を確認したり考えるのはお弁当のこと。今は娘と自分用に、毎朝1時間ほどかけて、ご飯を炊くところから始め、盛り付けて撮影しパソコンから写真をアップロードする。
出勤前の1分を争う時間、毎朝バタバタと慌ただしいけれど、投稿することでやる気が出てくるから不思議。休みの日でも自分用の”置き弁”はおすすめ、食べすぎ防止にも一度お試しを。
                              広報委員 坂本静
 
 
「つむじ風」に掲載する組合員エッセイを募集します
 文字数は300字程度。テーマの指定はありません。
 本部 川瀬宛 FAXまたは業務便でお送りください。