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![]() ![]() 1日限りの森カフェ、手作りの看板がログハウスに映えて素敵でした
伝統の「玉締め」で搾油 ㈲小野田製油所
その門の奥に工場があるとは思えな い、タイル張りのモダン昭和レトロな 建物とともに、小野田製油所はありま した。東京・新宿、都会の真ん中で、 昔ながらの道具と手法、手間ひまをかけたごま油作りが営まれていました。 小野田社長の説明を受けながら、工程を見学しました。原料は搾油用ミックス胡麻は使わず、食用の白胡麻のみ。 薪の柔らかな火でゆっくり火を通し、焦がしません。胡麻を 「玉締めのごま油は、ほとんど酸化し ないので冷めてもおいしく、食べた人の 体の酸化も防いでくれる。ぜひ勇気を もって、ごま油だけで場げ物をしてほし い。油の温度を人肌まで下げてから漉せば、減った分を足しながらずっと使い続けられます」と社長。 江戸時代から引継がれたこの玉締め法 こそ、胡麻本来の風味・栄養を損なうこ となく、そのまま油に移行できる最良の 方法と、今日もごま油を作る小野田製油所。工場内でもほとんどごま油の匂いが しないのは、胡麻を傷めない、やさしい作り方をしているからなのでした。納入先は90%が生活クラブと聞き、買い支えていくことの大切さを実感しました。 人と地域・人と市民活動をつなぐ拠点「パスレル保谷」
南支部 運営委員長 張昌子 パスレル保谷は、人と暮らしと地域をつなぐ架け橋として、アピール度の高いまちの中心、保谷市役所の前につくられました。1階には、生活クラブ生協の店舗「デポー西東京」 「かふぇ」。さらに、「子育て支援事業」として、認証保育薗があります。 もちろん、食事・おやつは生活クラブの食材を使っているので安心です。 その他に月に何度かの親子ひろぱも開 催しています。 2階には、老いても障がいをもっても住み慣れたまちで安心して暮らせるよう、高齢者や障がい者をサポートする団体が入っています。たすけあいワーカーズは、これまでの訪問介護サービスの他、デイサービスを始めました。当日は、20名ほどの高齢者がいきいきと元気に笑っているのが印象的でした。 さらに、介護保険のケアプランを作成したり、移動サポートをするNPOがはいっています。地域住民の活用できるイベントスぺース、市民の起業を支援するシェアオフィスもあり、年間を通じてさまざまな企画や講座がおこなわれています。 3~4階は10戸の分譲住宅があります。ここの住民はワーカーズの配食サービスも簡単に受けられるので、高齢者が多いとのことでした。 パスレル保谷は、生活クラブの活動がまちづくりに大きく貢献しているとともに、地域のあったらいいなを形にした、組合員活動の可能性を実感させてくれたのでした。
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日東珈琲㈱取締役営業部長 川端 加工食品を中心とした提携生産者20団体、組合員81名が参加し、前期生産者交流会が開催されました。 午前の部は日東珈琲㈱の川端勇雅さんの講演、午後の部は5分科会に分かれ意見交換が行われました。 ●生活クラブとの提携 日東珈琲㈱は、戦前はカ フェーパウリスタという会社 で、今年創業100年になります。実は大正9年頃、札幌の駅前通りにカフェーパウリスタ札幌店がありました。札幌に初めてコーヒー文化を開いた店として記録に残されています。「日東紅茶」とよく間違われますが、何の関係もありません。 生活クラブと提携したのは1983年です。当初は、「消 費材」 や「素性を確かめる」 という言葉の意味が全く理解できませんでしたが、コーヒー の生産・流通を明確にできな いか、顔が見える関係の貿易 はできないかという提案が あったので、直接貿易の可能性を探っていました。コーヒー は国産で賄うことができない からです。赤道付近の北回帰線と南回帰線にはさまれた熱帯・亜熱帯の国、しかも海抜 800m以上の高地産の物が 味も香りも良く、低地ではお いしい物はできません。 ところが、日本に流通して いるコーヒー豆は、商社からサンプルの生豆を取り寄せ、書類を見て買い付けします。 その書類には産地・輸出元・ 精製のタイプは書かれていま すが、誰がどのように育てた のかも、一番大事な味の評価 も全く書かれていないのです。
提携して7年程たった頃、 ブラジルのとてもおいしい コーヒーに出会うことができ ました。ぜひ取り組みたかっ たので、農園を見に初めてブ ラジルを訪れました。持ち主 のジョン・ネットさんが最初 に案内してくれたのは畑では なく、農園の奥にある雑木林 の中の湧き水でした。 以前、彼のお父さんはこの 農園でたっぷり農薬を使って いたのだそうです。でも彼は、樹にかけた農薬が地面に落ち ると水を汚してしまうと考え ました。それから軽装備で農薬を撒いている人の健康も考え、全く農薬を使わない農園 にするため、コーヒーの樹を 全て植え替えたのです。 通常、コーヒーの樹はクリ スマスツリーのように刈り込 み、収穫は実をしごいたり、 枝をたたいたり、手でもいだ りします。ところがジョン・ ネットさんはコーヒーの樹を 自然にまかせて高く伸ばして います。適度に密植すること で日の光が遮られ、下草が生 えないので、除草剤も必要あ りません。収穫期は乾期に当 たるので完熟した実が落ちる のを待ってかき集めます。こ れを全て自分で考え出し実践 しています。普通の栽培方法とあまりに も違うので、農場を持つ人が たくさん見学に来て「すばら しい。うちでもぜひ取り入れ たい」 というのに、たいてい はあきらめてしまうのだそう です。なぜなら、コーヒー豆 は木の実の種ですから、花が 咲いて実がなるまでに4年か かります。樹を植え替えると その間は収入がなくなってし まうからです。 ジョン・ネットさんの場合 は10年くらいかけて、少しず つ植え替えたそうです。今で は湧き水もすっかりきれいに なり、調べても安全だから ぜひ私たちに飲んでみてほし かったのです。 ●森のコーヒーの取り組み そんなジョン・ネットさんに私たちは感動し、彼のコーヒー をぜひ取り組んでもらいたい と生活クラブに話しましたが、 すぐに全体で取り組むことは できませんでした。しかしチャ ンスは年に1回しかありませ ん。言葉も習慣も違う相手と 契約するには、確実に消費し、 確実に支払うことが必要です。 そこで、実績をつくるため、 まずは呼びかけに応じてくれ た東京、北海道など5単協に 供給を開始。94年から連合会全体で取り組めるようになっ たのです。 それからは毎年、収穫期に 担当者が農園を訪れ、収穫の 状況や味の具合など、さまざ まなことを直接話し合って確 認しています。だから生活ク ラブでは多額のお金がかかる 有機JAS認証を取得する必要はないと言ってくれます。 紙っペら一枚の証明よりも、 生産者と話し合って確認する ことが大事だからです。 このジョン・ネットさんの コーヒーに、私たちは農園の様子から「森のコーヒー」 と 名付けました。今では、銀座 の直営店でコーヒーを注文す ると、出てくるのはこの 「森 のコーヒー」 です。それは、 生活クラブの皆さんのおかげ です。本当に有難いことだと 思っています。 こうして直接貿易を始めた ら、人とのつながりができる ので、とても有意義なことだ と思っています。そして、世 界にはコーヒーの種類がピン からキリまで本当にたくさん あってびっくりしました。 それからお米のように新米、古米、古々米のコーヒーがある こともわかりました。でも古 い物は決しておいしくないで からね。 それから何より、直接貿易 をしてみて、原料をきちんと 自分たちで見てくることが大 事なのだとわかりました。で も、私はもう一つ大事なこと を忘れていたんです。ある農 場に行った時、生活クラブの 職員が「あなたが扱っている のは農産物だよ。農業は土が わからないとね」 と言って、 土の匂いを嗅いでみせたので す。「あなたはコーヒーのプロ かもしれないけど、農業のプ ロは農家なんだよ。コーヒー を出荷するまでの農家の苦労 も知らなきゃダメだよ」。確かに商社から買っていた頃は、 コーヒーの原料が来るとしか 思っていなかった。もっと農 業のあり方にも興味を持つべ きだったのです。加工食品で あっても、その原料の農産物 や水産物をもっと知りなさい。 それがわからなければ先へは 進めないと教えてくれたのは 生活クラブです。 ●消費材の価値を見極める そんな訳で、農家の生産に は時間と空間と見通しが必要 です。農産物の収穫は年に1 回しかないし、子牛を育てる には何年もかかります。だか ら組合員が食べることが農家 の生産につながっていきます。 また生活クラブからは「生産者は業界の常識を打ち破り なさい」 と言われています。世の中の商品にまつわる常識 は、その業界のトップ企業が 作っているんです。例えば、 醤油の醸造期間を1番の大手 メーカーが開示しないから、 2番3番のメーカーも開示し ない。だけど、醸造期間はとっ ても大事な情報ですよね。だ から皆さんは、ちゃんと開示 しているわけです。 皆さんは価格だけで判断せず、もっと五感を大事にして ください。鼻と目と耳と口を 使って消費材の価値をちゃん と見極めてください。悪いこ とは悪いと言ってくれれば改善につながります。組合員の皆さんが喜んでくれるので、 生産者はみんな苦労しながら 前向きに作っています。だか ら生産が続けられるように食 べていってください。
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今、北海道では泊原発でのプルサーマル計画、幌延深地層研究所センター建設などが進められ、ますます国の政策に疑問を感じます。そこで今回は、原子力を熟知している京都大学原子炉実験所助教の小出裕章さんを講師に招き、お話してもらいました。 化石燃料は枯渇する?
原発が生み出すもの 日本では、原発は絶対に大事故が起きないと言われてきましたが、機械も人間も完璧なんてあり えません。チェルノブイリ原発事故が恐ろしさを教えてくれてい ます。 原子炉を動かすには、ウランの 採掘、精錬、濃縮、加工といった 工程があり、さらに炉の建設や運転にも彪大な資材と化石燃料が使 われ、稼働までの過程に彪大なCO2 を放出しています。 電力会社は、核分裂時にCO2を出 さないからエコだ、クリーンだと 宣伝していますが、原子力の燃料 のウランは燃やす(核分裂させる) と、核分裂生成物という「死の灰」 が否応なく出来てしまう。このこ とが原子力が抱える危険の全ての 根源です。 300年のお 原子炉1基の運転に伴い、毎年 ドラム缶1千本の「低レベル放射性廃物」が生じます。ドラム缶は貯蔵施設に格納されますが、いずれ錆びて穴が開きます。そこから 漏れる放射性物質は国が監視し、 安全になるまでの300年間管理するといいます。放射能のゴミは、 原発で利益を得ている電力会社に 責任があるはずですが、長きに渡 る管理はできないと国に押し付け たのです。 今から300年前というと忠臣蔵の討ち入りの時代。その時代の 人々が現在の社会を想像できた道理がないように、私たちも300 年後の社会を想像することなど到 底出来ません。 高レベル廃物は100万年 1966年東海1号炉の運転に 始まり、今日までに生み出した核 分裂生成物の量は、広島原爆の 100万発分を超えてしまいまし た。これは「高レベル放射性廃物」 として100万年に渡り、生命環境から隔離しなければいけない毒物です。 結局人類は、原発が生み出す廃物の処分方法を知らないままに今 日まできてしまいました。日本では今、青森県六ヶ所村に一時的に 貯蔵して当座をしのいでいます。 北海道の幌延深地層研究センター では研究の名目で、すでに250mま で掘り進められていますが、本当 の埋め捨て場にされてしまうので はないかと心配しています。 高速増殖炉の真の意図 天然のウランには燃えるウランがわずか0.7%。残り99,3%は 燃えないウランです。その燃えな いウランを利用し、効率的にプル トニウムに変換し、増やしていこ うというのが高速増殖炉。これは 技術的に難しすぎて、世界の核開発先進国全てが撤退しています。 日本では80年代に実用化すると 言っていましたが、今では見通し すら立てられずにいます。それで も止めようとしないのは、高速増殖 炉は超優秀な核兵器材料と成りう るプルトニウムを生み出せるから。 プルサーマルを行う本当の理由 日本は使用済み核燃料の再処理を英国・仏国に委託し、45トン ものプルトニウムを保有しています。これで長崎型原爆4千発分が 作れてしまいます。日本は先の戦争で多大の厄災を及ぼしてきまし た。世界中から忌み嫌われ、何をするか分からない怪しい国だと思 われています。その日本が「原子力の平和利用」と称して、使い道のないプルトニウムを多量に保有するなんて、国際社会が許す道理 もなく、「日本は余剰プルトニウム を持たない」と国際公約させられ ました。そのため、何が何でも始 末しなくてはならず、苦し紛れに 考えたのが、無理やり燃やしてし まうプルサーマル計画なのです。 私たちは、原子力が唯一のエネルギー源になると思い込まされ、 彪大に生み出した放射能のゴミを 無毒化したいと思いながらも、それが出来ずに今日まで来てしまい ました。原子力政策は嘘に嘘を重ね、誰も責任を取らないまま、窮地に陥っています。誤りを認め謝る、というまっとうな生き方に原子力は反しており、私は許せません。直ちに廃絶すべきです。 ![]()
15歳で海軍へ
攻撃を受け一瞬で消えた船と部隊 そして、沖縄から戻る途中で、 私たちの船は攻撃を受けたのです。その夜、私が甲板に出て いると、魚雷が白い水しぶきを 立てて近づいてくるのに気付き ました。やられると思い、私たちはとっさに海に飛び込みまし た。 その直後、私たちの船は爆撃 を受け、水しぶきが高く上がり ました。そしてしぶきが下りた ときには、船の形はすっかりな くなっていたのです。 飛び込んだ私たちは、ばらば らになって浮いている船の材木 につかまって8~10時間ほど漂 流しました。そしてそのまま朝 になり、船や飛行機に手を振っ て気付いてもらい、やっと助か ることができました。 船に乗っていたのは200人 ほどでしたが、すぐ海に飛び 込んだ30人だけが助かったので す。6月の沖縄の海が暖かかっ たことも幸いでした。 運に恵まれ生還 その後、広島の呉や長崎な どを回り、原爆が落ちて炎上している町を船上から目撃しまし た。そして終戦目前の頃、今度は横須賀に向かう途中で、また空襲に遭ったのです。B29が百機編隊で迫ってきました。しか し、その頃日本はもう対抗する 武器がなく、下手に手を出した ら、やられてしまうのはわかっていました。戦力を失い、黙っ て見ているしかなかったのです。 私たちの船は攻撃を受け、後部 に穴が空いてしまいました。し かし、なんとか補修して横須賀 に戻り、ドックに入ることがで きました。そして終戦を迎えた のです。 終戦を聞いたときは、本当にほっとしました。私は帰りたくて仕方なかったので、「家には老人と女しかいないから帰してほしい」と頼み、終戦後1週間ほ どで帰ることができました。小樽に戻ると、家族は疎開して家 には誰もいなかったのですが、 人づてに聞いて探し出すと、親 も兄弟も突然帰ったことにびっ くりして喜んでいました。 振り返ると、私はつくづく運 が良かったのだと思います。船の修理でドックに居たからすぐに帰れたものの、そうでなけれ ば南方からの兵隊を運ぶ復員船の乗務を命じられて、3、4年 は戻れなかったはずです。 戦争を知らない世代の人たち には、間違っても戦争など起き ない世の中にしてほしいと思い ます。自分の子どもを戦地に送 るなど考えられますか? 平和 を保つには、総理大臣のように 上に立つ人が戦争をしようなど と考えないことが必要です。私 は経験しているからこそ、平和 主義を貰いてほしいと強く願う のです。 ![]()
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