![]() ![]() 石けん使用を入り口に水環境を守るという視点で、広く生活を見直そうと続けている石けん運動。石けん運動委員会が全道庁労働組合の家族会主催の学習交流会に招かれ、出前講座を行いました。石けん運動委員や有志7名が講師となり、総勢90名を超える参加者に向けて合成洗剤との違いを丁寧に説明し、汚れ落ちを比較したり、白くなったと見せかける蛍光増白剤をブラックボックスを使って見てもらうなどの実演を行いました。また、各テーブルでとろとろ石けんやクリームクレンザーなどを実際に作り、汚れ落としの体験をすると「こんなにきれいに汚れが落ちるの」「合成洗剤よりきれいになるね」と、あちこちのテーブルから驚きの声が上がり、石けんの良さを十分に伝える機会となりました。
設立10周年 生活クラブの「デイこたけ」は市民参加による地域福祉の取り組み 生活クラブデイサービスセンター「デイこたけ」 施設長 黒田さとみ
たすけあいの精神に 基づく福祉事業 ![]() 生活クラブが、協同の福祉を目指し取り組んだ、高齢者の福祉に関わる事業、デイサービスセンター「デイこたけ」が2001年10月23日に産声をあげて、今年10周年を迎えます。 高齢になっても自分らしく心豊かに暮らせる地域社会づくりを目指し、協同組合が大切にする「たすけあい」の精神に基づき運営し、組合員一人ひとりが支え合う事で実現して来た事業です。生活クラブらしい、安全 な消費材を使った食事の提供、入浴にはもちろん石けん・石けんシャンプーを使用。食事は当初からワーカーズのかまら~どと連携しています。また、支部の見学会やサポーター活動も行われ、組合員の声が直接聞ける場になっています。 「デイこたけ」10年のあゆみ ![]() 開設時は週2日、定員10名の利用者の受け人れから始め、少しずつ曜日と定員を増やし、今年7月からは土曜日も開所。現在は週6日、定員18名まで事業を広げることができました。 当初から「家庭的な雰囲気のデイ」「おしゃべりしてゆっくり過ごすデイ」をこころがけ、一人ひとりの思いに応える関わりを大切にするコンセプトは、今も 変わりません。スタッフも全員組合員で、当初4名、現在は11名でケアを行っています。研修会の開催や各種講座の受講、介護福祉士・ケアマネジヤーの資格取得など、積極的にスキルアップを図っています。 7月16日に開催した8回目の「デイこたけまつり」は、地域へ向けた行事として「毎年楽しみにしてるよ…」と声をかけて頂けるようになり、参加者も増えています。
村上さんから高齢化の進んだ夕張で取り組まれている在宅医療から地域の高齢者の暮らしを伺い、さらに進む高齢化社会での介護・地域の支え合いのしくみを学び、これからの地域福祉の展望を考えて行きたいと思っています。 これからも地域に根づいた活動を ![]() 「デイこたけ」の開所から3年の2004年7月。デイの隣に、介護相談の窓口として介護サービスの利用の仕方や、介護の協力体制などを、ご本人やご家族と一緒に考えてサポートする居宅介護支援事業所のケアプランセンターがスタート。どちらも総称「こたけさん」と呼ばれ、声をかけて下さる方や、立ち寄っての相談や問い合わせの電話も増え、地域に根付いて来ていることを感じています。 これからも地域へ向けて、いろいろな情報を発信し、集える場に、そしてここから次へつながる事業を考えていきたいと思います。たとえば、ショートステイや高齢者用住宅など、夢は果てしなく膨らんでいきます。 ![]() 2011年度 前期生産者交流会 かでる2.7(7/4) 生産者とともに作る消費材を見つめ直そう
講演要旨 生活クラブの自主管理監査制度とは
生活クラブでは、おおぜいの 組合員で消費材の自主監査を 行っています。 一般には品質保証システムが 適切に機能していることを認証 する、ISOという国際規格 があります。しかし、有害な六価クロムを含む産業廃棄物を、 リサイクル製品として売り込ん でいた石原産業のように、認証 されていれば確かな企業かとい うと大間違いです。 それに対して私たちは、生産者と共にに消費材を作り、点検し、 消費する。当事者同士の認証制度「自主管理監査制度」を作っ たのです。 生活クラブの自主管理監査 制度(下図参照) とは、 ●自主管理型 法律に書いて あることは前提とするものの、 組合員と生産者・職員が話し 合いを重ね、相互の納得性を重視した独自の基準を作ります。 ●参加型 全組合員一人ひとり、組合員代表、生産者、役 職員と皆で参加して作っていき ます。先ほどのISOと対比 すると、台所の主婦の概念が製造の専門領域に人っていくわけ です。そこでは業界の常識を打 ち破る生産性が生まれたり、ま た大量生産する際には物理的 にどうしても出来ないことがあ ることもわかります。 そして製造現場を監査。相 互の意見を自主基準にのっとり 確認しあいます。これはのちに、 利用結集にかえってくるという構造をもっています。 ![]() ●費用負担の軽減 ISOを 取得するには、コンサルティングに何百万も払い、さらに更新するのに毎年お金がかかります。その点、自主管理監査制度 はお金がかからない。ただし生産者にとっては、おおぜいの自主監査を受け入れなければいけないという条件はあります。 他生協と生活クラブの大き な違いは、例の餃子事件で明ら かです。彼らは出口での監視体 制を強化しました。原材料など 入口で情報開示する正直さと、 生産者との信頼関係が構築さ れれば、本来出口を気にする必 要はないのです。おおぜいの自主監査で確認し、責任をもって 食べることで利用を高め、相互 信頼を深めていく。これが入口 を固めた、生活クラブの自主管理監査制度です。 福島原発事故後の対応 今までは生産者と生活クラ ブの信頼関係で、消費材の安全性は確認できました。しかし 3月11日以降、福島原発事故 によって、放射能汚染が私たち 自身の生活圏内を脅かすことに なったのです。 こうなると生産者と我々だけでは解決できない。9月から やむなく測定器を用いた放射能の全品検査、先程とは違った 意味での出口検査に、踏み込まなければいけなくなりました。 そして基準についても、 37ベクレルはチェルノブイリ原発事故の時に定めた値であって、原発事故の当事国となった 今、どういった形でアプローチ していくのか検討を始めまし た。今後2012年の自主基準管理委員会の中であらためて討議し、生活クラブの対応を決めていきます。 (加藤) ![]() ●戦争を語り継ぐ 戦後66年 打方成美さんに聞く戦争体験 少年兵に志願しない者は国賊 今年も8月15日の終戦記念日が巡ってきました。生活クラブでは、二度と戦争による 悲劇を繰り返してはならないと平和運動に取り組んでいます。 次世代に語り継ぐことさえ年々難しくなっていますが、広報委員会では
私は昭和4年、福井県の百姓の家に生まれました。4年生の時に母が死に、父は5人の子どもを一人で育ててくれました。 戦争が始まったのは、私が5 年生の時でした。学校でラジオ の前に集められ、東条英機の開戦の言葉を聞きました。「アメ リカのような大きな国と戦争したら、日本はどうなるんだろう」 と思ったものです。学校でも軍事訓練が始まり、校長先生から は「少年兵に志願しない者は国賊だ」 と教えられ、私もその通 りだと思いました。その後私は 6年生でリウマチ熱を患い、3 学期はほとんど学校に行けな かったため、中学受験もかなわず、高等科に進むしかありませんでした。 昭和19年4月、帥範学校予科 に入学。とにかく勉強が好きで、 毎日遅くまで延燈室で勉強を しました。ピアノで「てふてふ (ちょうちょ)」 の伴奏の練習も しました。しかし6月、私は突然大量の鼻血と高熱に見舞われ ました。肺浸潤(結核の症状の軽いもの) と診断され休学。寮 を出て家に帰りました。 軍国少年として 家で療養しながら、この非常 時に一体どうしたものかと、私 はひたすらお国のために死ぬこ とばかりを考え、9月、大津陸軍少年飛行学校の2次試験を受 けました。丙種合格となり、軍服を着た時は本当にうれしかっ た。死ぬつもりでしたからね。 ところが突然「肺結核の痕跡があるから、帰れ」 と言われたの です。今思えば、すでに飛行機 がなかったのでしょう。 私の家は小地主でしたが、作物のはとんどは供出させられ、 食べ物はあまりありませんでし た。兄が徴用され、父と私は一 人で田植えをしました。その上、 小作の家でも男手を失い、作れないからと田畑を返してきたのです。しかし供出の割り当てがあります。私たちは小作の分まで作らなければなりませんでした。 終戦のひと月前7月13日、130機とも150機とも 言われるB29の大編隊が、私の家の上空を通り過ぎ、山ひとつ向こうの福井の町を襲いました。ばあっと火 の玉がちらばって、焼夷弾 が落ちてくる光景は今でも脳裏 に焼き付いています。 昭和20年8月15日、部落の人 たちと天皇陛下の玉言放送を聞 きました。「日本は負けたんだぞ」と誰かが言いました。私は がっかりして、その虚脱感は何 年も続きました。人間は、そう 簡単に変われるものじゃありま せんからね。 その年の9月に師範学校が再 関することになりましたが、校舎は跡形もなくなっていまし た。あたりには不発の焼夷弾が 山積みで、同級生が触れると破裂して、彼は片目を失ってしま いました。 級友 若泉敬のこと 師範学校の授業は鯖江の36連 隊の兵舎で再開されました。復 学して一年遅れとなった私の同級生には若泉敬がいました。彼 は後に、沖縄返還の際の佐藤栄作首相の密使として、キッシン ジャー補佐官と交渉した人です。 佐藤栄作は、沖縄返還を果 たしたことで1974年ノーベ ル平和賞を受賞。しかし若泉敬 は、米軍の核作戦を支援するた めに沖縄を使用することを認め る「核密約」を結んだことを悔 やみ、著書「他策ナカリシヲ信 ゼムと欲ス」 で真実を公表。 そして、英語版の出版の打ち 合わせが済んだ直後、沖縄の人 たちに申し訳ないことをしたと、 96年に服毒自殺したのです。彼 は病院に通っていたと聞いていた ので、病死だとばかり思ってい ましたから、本当に驚きました。 学生時代の被は、福井師範始 まって以来の秀才と言われてい ました。いつも穏やかで、決して人を馬鹿にするようなことは ありませんでした。彼は今でも 私の一番尊敬する人物です。 私は福井大学を卒業後、北海道に渡り中学校の教師となりました。退職後は、詩を書きながら核兵器廃絶を呼びかけています。 (聞き手/佐々木) ![]()
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